【考察】他人の視線が気になる日本人。社会学的に考察してみた。

人は誰でも他人の視線を気にする。現代日本人は特にその傾向が強いように思われる。

例えば、集団でいるときはそんな視線を感じ取って「空気」を「読め」と幼いころに言われた人も多いに違いない。「KY」という「空気」を「読め」ない人を揶揄する言葉も以前に流行した。

日常生活において、そのように他人の視線を気にする機会は多く存在するが、そもそも現代日本人が他人の視線を気にすることは具体的にどのようなメカニズムで成り立っているのだろうか。

社会学の事柄や身近な日常観察を通して検証してみよう。

情報の「発信者」と「受信者」

まず、私たちは誰でも様々な形で他人から影響を受けている。これは誰もが容易に納得できるだろう。となれば、影響を与える人と、与えられる人のどちらも存在するといえる。影響を与える人は言語のようなバーバルな領域か、立ち振る舞いや服装のようなノンバーバルな領域のどちらかで情報を発信している。影響を与える人を「発信者」と呼ぶことにする。逆に影響を受ける人は、その「発信者」の情報を読む(解釈)だけではなく場合によってはサンクション(社会的制裁)を発動する。影響を与える人を「受信者」と呼ぶことにする。

ここで、注意したいのは、解釈は自由に行なうことが出来ないという点である。なぜかというと、各自の文化的背景によっては「受信者」によって解釈が異なるという点では文化に縛られているといえるし、解釈という行為は、「受信者」の解釈が蓄積して生まれた「普通」と常に照らし合って行われるからだ。この様に考えると、「発信者」はそのような「受信者」の解釈を想像して振る舞わなければならない。これが「解釈の権力」による作用である。

そして、二者の振る舞いをそれぞれ考えてわかることは、「受信者」はただ「発信者」の発する情報を解釈するという受動的な行動のみをしているのではなく、同時に「発信者」に振る舞いを期待するという能動的な行動も同時に行っているということである。このことをふまえて日常観察を分析したいと思う。

日常観察「車通りの少ない信号機」

10月のある夜、車通りの少ない信号機の前で青に変わるのを待っている男性がいて、私はその後ろで待っていたのだが、その待機中の彼を横目に平然と通りすぎる女性がいた。彼は信号を待つ姿だけで周囲の人に情報を発信しているのでその意味で「発信者」である。もしかしたら私は誰もいない状況であれば(その「受信者」とならなければ)、渡っていたのかもしれない。しかし、私は、「発信者」の待つ姿から「車通りが多かれ少なかれ待つべき」という情報を受け取って、待機をすることを決めた。待機する「受信者」である自分は次に来る人にむけて「解釈の権力」を、つまり待つことがふさわしい事だと期待しただろう。それに反して第2の「受信者」である女性は自らの基準にそぐわないとして平然と横切ったのである。また横切った女性は今度は「発信者」として「待つ必要はない」と待機する二人に情報を発信しただろう。しかし、その「受信者」となった私たちは信号無視をすることはなかった。信号無視は基準にふさわしくないと感じたからである。

この日常観察で判明したことは「解釈の権力」は「受信者」の行なう「発信」であるといえるので「受信者」は「発信者」でもあるということだ。「発信者」は「受信者」の「発信」をフィードバックとして「受信」する意味では「受信者」である。

最後に

日常の何気ないことを自分の言葉であらためて表現する事で、新しい知見が得られた。他人の視線を気にするということは単に他人の解釈を気にするということだけでなく同時に「発信」のたびに他人から「解釈の権力」によって「ふさわしさ」を求められていることであるとわかった。この「ふさわしさ」に合わない人が疎外されることもありうる。例えば、SNS上では「ふさわしさ」を満たすように振る舞う必要があったり、現代日本ではこのような場合が多く、「解釈の権力」に晒され続ける生きづらさを感じる人も多いだろう。

 

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